狭山茶

   夏も近づく八十八夜

   野にも山にも 若葉がしげる

   あれに見えるは 茶摘みじゃないか

   あかねだすきに すげの笠。

子どものとき、このうたを、うたいながら、よく、お茶をつみました。

今は、お茶つみも、はさみがりや、機械で摘みとりますので、たいへん手がはぶけるようになりました。

むかしは、手摘みですから、とても、いそがしく、とくに、このへんは、狭山茶の中心ですから、人手がたりないので、入り摘みといって東北地方等の遠方からも、この季節にはとまり込んで働らきに来た人もあります。また小学校も農繁休暇といって、この期間二週間ぐらい学校を休みにして子どもにお茶をつませました。

お茶は今から、八百年も前に、栄西禅師という、えらい坊さんが、支那(宋)の国から茶の種をもちかえり、ちくぜん(九州)のせぶり山にまきました。そして栄西は喫茶養生記という本をかいて、お茶は、不老長寿の薬になると、言われ、みんなにすすめました。

その弟子高辨という坊さんは各地に茶をまいて、いちばん茶に適しているところを五ケ所みつけました。その一つが狭山です。そのころは川越茶といって、とてもよいお茶ができました。室町時代から茶の湯が盛んになったのもそのためです。

ところが、狭山茶は、その後、だんだんすたれて、とうとう、お茶をつくるものもなくなり、茶の木もすくなくなりました。それを、ふたたびさかんにしたのは、文政のころ、宮寺の吉川温恭と村野盛政という人です。

ちょうど、初夏の雨がはれあがり、すがすがしいきもちのよい天気になりました。村野さんが、ふと、庭に出ると、青々とやわらかい新芽を出した、とてもきれいな木が目につきました。それはお茶の木です。

むかしは、この葉で茶をつくったと、いうことを思い出され、「不老長寿の薬になるという、お茶というものを、つくってみよう。」と、これをざるに摘んできて、ほうろくでえって、お茶をつくり、それをせんじてのんでみました。それがとても、おいしかったのです。

さっそく近くの、吉川温恭さんと話し合って、お茶をつくることを、みんなにすすめました。

そのうちお茶のつくり方も研究し、たいへんよいお茶ができるようになりました。

吉川さんは、それを、江戸日本橋のお茶問屋山本徳潤さんのところへもっていきました。(山本徳潤さんは今の山本山の先祖です)山本さんも、大そうよろこんで、

「たくさんつくって、名物にしてください。」といってはげましてくださいました。

それから、お茶を植え、お茶をつくる家が、だんだん多くなって、狭山茶の名がいよいよ高くなりました。

宮寺の出雲祝神社の境内に、天保三年にたてられた、「重ねてひらく茶場の碑」がありますが、その碑に、このようなことがかいてあります。

明治の時代になって、外国との貿易がさかんに行われるようになると、遠くのアメリカの方まで売り出しました。

「宇治の銘茶と、狭山の濃茶と、出会いましたよ横浜で」という茶つくりうたがありますが、日本のお茶の産地として、京都の宇治、静岡の茶と、ならんで、劣らない、お茶をつくりだすようになりました。

今はつくり方も、むかしからの紙ほいろの上で、手製の茶はほとんどなくなり、機械化し、製茶工場で大量に生産されるように発展しております。

また、黒須の繁田武平さん(繁田園)では昭和三年宮内庁から御料茶謹製方を仰せつけられ、以来三十年も毎年献上の光栄に浴しておりました。故繁田武平氏のよめるうた、

 ○我が摘みし御園の茶の芽雲の上のささぐる日までつつがなかれと

 ○雲の上の園の茶摘むと家の子らはげむを見ればいともたのしき

 ○仰せうけお茶つくるわざ我が世まで二十九とせの変わりなき幸

この名産、狭山茶場の碑としては前に記した宮寺のある碑のほかに、瑞穂町箱根ヶ崎にもまた入間市新久の龍円寺にも北狭山茶場の碑がたっていて狭山茶の由来をしるしてあります。