久保稲荷と白狐桜
久保稲荷は扇町屋の久保というところにあり、むかしは桜の名所でした。四月十七日豊岡小学校の開校記念日のころは桜の満開で、よく先生に引率され、定例行事としてかけ足で校外遠足にかねて桜見物をしたものです。
この稲荷様は天文十三年(西紀一五四〇)扇町屋の新田神社(愛宕神社)の宮司、守屋伊豆守が、新田神社の社号勅許の請願のため京都に出向いた折、京都の伏見稲荷から稲荷様の御分霊として古剣一口をいただいて帰りました。その時地元扇町屋では桜の老樹の下に二匹の白狐があらわれて、この御分霊をお迎えしたといいます。人々はこれは神様のお使いだとあがめ、その地に社をたててこの御分霊を稲荷様としてまつりました。そしてその桜を白狐桜と名づけました。
その後天明六年の夏、疫病が大流行し、住民が非常に苦しみましたが、この稲荷様を信仰する人はふしぎと病気をまぬかれ、又は軽く治癒したというのでその後さんけい者がにわかに多くなりました。
桜の大樹が参道の左右に並木をなし、敷石をはさんで数多くの朱の鳥居がたちならび、築山、絵馬殿、神楽殿等もそなわり、昔の盛況がしのばれます。
特に明治の初年にはもっとも盛況をきわめ、門前宿場のような形で飲食店、茶店等立ならび、常設演劇場もあったといわれます。また大正五年には当時相撲界の常勝者大刀山が人力車で参拝をいたしました。そのように地元近在はもちろん江戸市中にまで講中ができ奉納金も多く繁栄しました。このように当社は時に盛衰はありましたが概して六十年に一度の盛時があるとのことで、去る明治初年の繁栄もちょうどその時にあたったのだということです。
※イラストはイメージです。
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