三輪の杜
北に金子の丘陵を背負っている、桂川の清流のほとり一帯は、狭山茶所としてのよく野です。このよく野の中に、うっそうとしげる森は、三輪の森といわれているところです。
今からおよそ千年も前のことです。
毎夜この森から美しいびわの音がきこえてきました。通る人は立ちどまり耳をかたむけ、やがてこのびわの音にひかれて森の中へはいっていきます。
するとびわの主の姿は見えず、どこから聞こえてきたのかさっぱりわかりませんでした。
しかし、たえなるびわの音は毎晩、毎晩きこえてくるのです。
その頃、鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)藤原(ふじわら)秀郷(ひでさと)公(こう)が、東国平定のため、この地を尾とお通りになりました。秋の陽はつるべおとしか、陽はすでに金子の山のうしろに落ちて、あたりはうす暗くなりました。
秀郷はこの森の前に馬をとめ、しばらく休憩なさいました。
すると、森の中から、あの美しいびわの音が聞こえてきました。秀郷は、
「これはたえなる音だ、なにものが、かなでているのであろう。」
と、耳をそばたてられました。
やがて、森の中へ別け入られますと、そこには白髪のおきな夫婦が、大樹の下で、無心に、びわをひいておりました。
「そなたは、なに者なるぞ。」
と、声をかけられますと、おきなは、静かにびわをおいて、一礼して、
「わたしは国っ神、宇賀彦、これなるは、宇賀姫と申します。大和の三輪からまいった者で、この土地の平和と、五穀豊じょうを、ことおいて、こうしてびわをひいています。」
と、答えました。
秀郷は「そうであったか・・・・・・。」
と、頭をあげると、かの、おきなの姿はもうありませんでした。
秀郷は、あまりのふしぎさに、
「さては、五穀をまもってくださる神様であらせられたのか。さっそくお宮をつくっておまつりすることにしよう。」
と、おおせられました。
人々は、この森をびわの森といっておりましたが、いつか、それが大和の大三輪神社のゆかりと合せ、この社を三輪神社と呼び、三輪の森というようになりました。
そして中神の鎮守としてあがめられています。
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