入間野の鳥狩

はてしなくつづく雑木林、尾花がふきなびく武蔵野は、むかし関東武士が馬を乗りまわし、弓を射て武技をねるにとてもよい広野でありました。この広野できたえた武士たちは関東武士といって、とてもたくましく武勇すぐれたものが多かったのです。そのうちでも武蔵の国は強剛をきたえられたりっぱな武将がたくさんでました。

源頼朝が鎌倉に幕府を開いた翌年(一一九三年)建久四年二月十五日、大ぜいの武士をひきつれて入間野に鳥狩りをいたしました。それは頼朝が武技を奨励するための、ちょうど今のスポーツ大会のような催しだったのでしょう。

大ぜいの武士は、きょうこそ大将軍のごらんになる晴れの場所で、われこを妙技をふるっておほめにあずかろうと、勇みに勇んで、広野の森、林の中をかけめぐりました。

そのとき、ひときわ頼朝の目にとまった一人の武士がありました。かれは強弓をもって百発百中、つぎつぎにねらいたがわず獲物を射おとすので、その妙技に頼朝はじめ、だれもがかんしんして見ていました。

いよいよ日暮頃、

「皆の者、本日はなかなかの豊猟であった。これから獲物くらべをするから、それぞれ射とめたものを御前へ持ってまいれ。」とのおことばがありました。

大ぜいの武士は、それぞれ射とめた、きじ、たか、しぎ、やまどりなどたずさえて集まりました。その中で、さっきから御前で妙技をふるっていた彼の武士は、きじ五羽、まなづる二十五羽を持参してお目通りしました。

 頼朝はそれをみて、

「あっぱれ、あっぱれ、そなたの弓技は日本一であるぞ、名は何と申す。」

「それがしは、この地に住む、藤沢二郎清親と申すものでございます。本日の鳥射ちのわざ、お目にとまりまして恐えつに存じます。」

と、御前にひれふしました。

大将軍頼朝は、たいそうお喜びになり、「この者にほうびをとらせよう。」といって頼朝のだいじにしていたりっぱな馬をあたえられました。

藤沢二郎清親は「身にあまる光栄、家門のほまれでございます。今後ますます忠勤をつっくすことをお誓い申します。」と、よろこび勇んで、御前をひきさがりました。

今の藤沢地区は都市化の波に、住宅団地も造成され、昔の入間野の広野のおもかげもありませんが、昔はいろいろな鳥獣もすみ、林も深く、まなづる(鶴の一種)さえ住んでいたのです。ここで育った英雄、藤沢二郎清親という弓の名人が入間野の鳥狩りに記録をのこしています。藤沢家はその後代々鎮守熊野神社の神職をつとめられ、現在は姓を沢田氏と称しております。