矢口の渡し
今からおよそ、六百四十年ばかりまえのことです。武家政治が、ようやく天皇の御代にかえり、戦乱もおさまったかと思うもつかの間、足利尊氏が、むほんをおこしました。
その勢いは、なかなか強く、朝廷も、南北にわかれ、戦いは国中にひろがりました。
楠木正成、つづいて正行、名和長年、北畠顕家、新田義貞等の忠臣が、つぎつぎに戦死し、戦いは止みそうもありませんでした。尊氏は京都に入り、鎌倉には弟の足利直義をおき、四方の官軍にあたらせました。
執権足利基氏は武州入間川に陣をはり、関東方面をまもっておりました。
そのころ、新田義貞の次子、新田義興は、官軍の大将として、この足利の軍と戦いました。
基氏は、剛勇の新田義興を、何とかして打ちとろうとし、家来の畠山国清と、打合わせ、わざと、畠山を追い出し、いかにも官軍へ、寝がえりをうったように見せかけ、義興をだましうちにしようとはかりました。
義興は家来百騎ばかりをひきいて、足利氏征伐のため武蔵の国にむかいました。途中、畠山国清は、家来、竹沢右京亮、江戸遠江守と打ち合わせ、手はず通り、義興主従を出むかえて、ていねいにもてなしました。そして鎌倉をおそうようにすすめ、多摩川の矢口の渡しを船で渡ることにしました。
あざむかれているとは、つゆしらず、正平十一年十月十日、義興は家来十三人とともに一つの船に乗りこみました。船頭、とん兵衛は、船にさおさし川の中ほどまでこぎ入れました。その時、とん兵衛は自分もよしと、言いつけ通り船ぞこのほしをぬきました。
水は急に船の中へ押しこんできました。
「なにをするのだ。」さてはあざむかれたのか、と、対岸を見ると、何百人かの敵兵が、かくれていて、いっせいに矢を射かけました。
水にはいって泳ごうにも、重いよろいをつけているので、自由にならず、水の中で戦うこともできません。
「むねん―――――あざむかれたか・・・・・・。」
と、いかる形相も、ものすごく、たちをぬいて船頭をきりおとし、
「鬼になって、かならず、おまえたちを、こらしめてやるぞ。」
と、言いのこし、腹かき切って、水の中へとびこみました。家来十三人もつづいて腹を切って義興のあとにつづきました。
竹沢、江戸らは勝ちほこって、川から死体をあげ、義興はじめ十三人の首をきりおとしました。そしてその首は、くさらないように酒につけて、足利尊氏の陣へもってまいりました。
基氏の陣は、現在の入間市駅の東側あたりにあったと言われ、今大将陣という地名がのこっています。
大将基氏は、このしらせをきいて、大そう喜び、畠山、竹沢、江戸らの立合いで首実検をしました。そして、それぞれ恩賞にあづかり大よろこびでした。
義興の首は持っていた軍扇とともに扇町屋の神明様(今の愛宕神社)のそばへうめられ、首塚には、松、杉二本の木が植えられました。
またそのほかの家来十三人の首も、それぞれこの近くへ、かんたんにほうむられました。
そこで、江戸、竹沢たちは、よろこび勇んで、矢口へ引きかえす途中、にわかに時はずれの大雷雨にあい、耳もさけるほどの大音響とともに、落雷のため、ふたりとも死んでしまいました。人々は、これはきっと義興のたたりにちがいないと言ったそうです。
矢口の渡しは「とん兵衛の渡し」とも言われ、おしばいなどにもえんじられています。また、この渡しのあった近くにも、義興をまつった新田神社があります。
※イラストはイメージです。
0コメント