高倉福信

みなさんは、すもうがすきですか。ところで、むかし、この土地にすもうがたいへん強かった人がいたのを知っていますか。

時は、奈良時代です。今の朝鮮、そのころの高麗という国から日本へわたって来た人で、福信という人がありました。学問があって、りっぱな人だったので、宮中の記録の役をし、また守衛の役もつとめていました。

体が大きくて、おてんぐさまのように鼻が高く、赤ら顔で、ひげを胸までたらしておりました。

ある時、宮中で、すもうの会があって、力に自信のあるものは、次々と出場しました。

この中で、福信は誰よりも大きく、誰よりも力が強く、日本一だとえばっていた剛の者も、たちまちのうちに投げとばしてしまいました。誰として福信にかなう者はありませんでした。

天皇は「あっぱれ、あっぱれ。」と、たいそう、おほめになりました。

「なんなりと、ほうびをつかわそう、のぞみあらば申せ。」

と、おっしゃいました。

今ならば、大きなカップか、トロヒーでも、いただくところですが、福信は、

「べつに、のぞみはございません。ただ、私は高麗国から帰化した者で姓をもちません。できることなら、姓を賜りたいと存じます。」

と、申しあげました。

天皇は、「それは、もっともなことだ、では、その方には、高倉という姓をあたえよう。」

と、おおせられました。

そこで福信は大そうよろこんで高倉福信となのり、高麗郡高倉の地に邸をかまえました。

そして、相変らず、朝廷にお使えし、徒五位下という高い位をいただき、高齢でなくなりました。入間市高倉の地名はこうしてできたのだといいます。

いま中野原の福信のやかた跡といわれるところはあとかたもなく、畑になっていますが、ここからそこで使われたと思われる布目瓦や、礎石らしいものも発見されています。

 また最近、近くを国道二九九号線が開通されその工事のさいにも、古代住居跡や炉跡、石器、土器等も多く発見され、むかしのことがしのばれます。

※イラストはイメージです。

入間市神社総代会